人物登場 東レインター/田中健一社長

1999年09月02日 (木曜日)

 副社長在任はわずか三十二日。在アメリカ東レ代表として転出した阿部泰朗氏の後任として、東レインターナショナル(TI)の実質三代目社長に就いた。

 東レに入社して配属されたのは輸出部でスフわたなどを扱う輸出第二課。課長は斎藤光豊氏(のち副社長)だった。入社した翌年から実用英語技能検定(英検)が始まり、輸出部の若手約二十人は全員一級を受験したが、ただ一人不合格。斎藤課長からカミナリを落とされたが「もともと英語は不得意な人間を輸出部に配属した方にも問題がある」と〝反論〟。さらに一喝され、翌年合格したというエピソードも。

 そのかいもあってか、七〇年から七三年までニューヨーク駐在。対米輸出全盛の時代で「休日も忘れて売りまくった」。七六年から七九年はTALとの染色合弁、ナンシン・マレーシア(現ペンファブリック)、七九年から八三年は同じ商事合弁、TCL(現東レ香港)にそれぞれ出向した。

 なかでも香港からの染色事業撤退に伴って清算する案もあったTCLの常駐トップとして、経営を立て直しに奔走した三年間が思い出に残る。「大リストラを余儀なくされたが、ナショナルスタッフと協力して、あっという間に十割配当するほどの大黒字にできた。私の商社活動の原点だ」という。

 その後、日本に戻って炭素繊維を手掛けた後、TIに移って七年目。九七年度には売上高千五百億円を超えるなど、メーカー系商社としては最大規模に成長した。しかし「まだ設立十三年目で人間でいえば中学一年生くらい。早く一人前の大人にならなくては」との思いが強い。

 グループ会社とはいえ、存在意義のない会社に商売を回すような甘さは東レにない。東レが認める機能を確立したいと語る。すでに綿花ビジネスでは、他商社出身者を活用し、国内取り扱い量三位にまで拡大してきたが、こうした手法を他事業にも広げる。「東レ出向者だけに頼らず、外部の血を注入していく」。

 お世辞にも情報開示に積極的とは言えず、これまでは東レの黒子的なイメージが強かったTI。田中社長になってさっそく今中間期から決算会見を開くことを決めた。表舞台に躍り出てくる日は遠くない。

(たなか・けんいち)六二年京大法卒、東レ入社。トレカ事業部長、複合材料事業部門長補佐などを経て九二年東レインターナショナル常務。専務、副社長を経て七月社長。五十九歳。同期の平井克彦社長とはニューヨーク駐在も一緒だった。座右の銘は持たない主義。「持つとイデオロギーになってしまい、現実に応じた対応ができなくなる」。